人間言語の「恣意性」?

この聞きなれない言葉「恣意性」は「しいせい」と読みます。
例えば「木」という意味を言語音声で表すとき、日本語なら [ki] と、英語なら [tri:] です。
両言語で音形が異なります。
さらにつけ加えるなら、日本語でも [ki] である必要性はなく、極端な言い方をすれば、要するになんでもいい訳です。
つまり、意味と音形は、言語ごとにまったく勝手に結びついています。
「木」をどういう風に呼ぶかは、最初にだれかが決めて、それが始まりになります。

その結果、どのような現象が起きたか。
人間言語の「多様性」です。
地球上には、およそ5,000の言語があります。
民族・国・文化によって、意味と音形が異なるからこうなります。

壮大なドラマですね。

例えば、犬や猫だったらどうでしょう。
人間の言語とは違い、意味と音形が恣意的ではありません。
「恣意」は、別の言い方をすれば、さしずめ「任意」とか「自由」となるでしょう。
その反対は「必然」です。
犬猫の言語は、意味と音形の関係が必然なのです。
そのせいで、彼らの言語の種類は、地球上で「1」となります。

ついでながら、犬や猫、人間以外のすべての生き物の言語は親から子へ遺伝します。
人間言語のみが遺伝しません。
そう、人は言語を学習し習得する運命にあります。
そんなこと、考えたことがありましたか?
この学習しなければならないという特性を「文化的伝承」と呼びます。

人間言語は恣意性を有しているがために、外国へ行く場合、その国の言語を知っているか、お互いに共通言語で話をするとかでないと、意思疎通ができません。

まあ、だからこそ外国語教育や学習があって、それはひとつの「芸術」、ひとつの「美学」として人びとの文化を豊かにしています。

そこへいくと、犬さん猫さんは外国へ行ってもだいじょうぶ。
どこでも言葉が同じだからです。
初めて会ったその日から愛を語りあうことができるのです。

でもそれって便利だけど案外つまらないかもしれませんね。

" To your health."
"Cheers ! "

「日本語でなんと言えばいいの?」
「教えてちょうだい」